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 オアシスにぽつりと蒼の孤城と呼ばれるの城の主人――ユディトは今日も一人で滸を歩いている。日課になりつつある散策はいつも違う道をいく。飽き性であるのをユディト本人自覚してる。継続させるために工夫した。決めたら何があってもやり遂げる――この真逆ととも取れる性質を利用して、まずこの日まではやるという具合に。雨の日にでかけたのは流石に周りから呆れられたが。思い返して、ユディトはくすりと微笑った。
「主様! 主様ぁ!」
あら――とユディトは自分を呼ぶ叫びにも似た声に振り返る。
「どうした? えっと……シュガル」
少年の姿を暗紅色の瞳ではっきりと確認してからユディトはまた「シュガル」と呼んだ。
「はぁい!」
元気よく返事する彼の頭をぽんぽんする。くすんだ鬱金色の柔らかい髪の触り心地は本日も問題ない。ふとその手を彼の頬に沿えて自分の方に向かせた。シュガルの背はユディトの胸元までしかない。つまり彼は仰がされる態になる。
「シュガル……あまり困らせるでないよ」
その一言にぷーと頬を膨らませるシュガル。灰みがかった明るい赤色の双眸を揺らす愛らしい少年の姿に一笑。
「今度はなにから逃げてきたんですかね」
首を傾げ、
「サラーからですか?」
「違う!」
「ではナギアですね」
「違うの! ちょっとしたことが……」
渋面を作るシュガルの両頬をつねり引っ張った。
「いたぁい、痛いです」
「お前はなぜそうやって問題を起こすとこの私のところに来るんですか?」
「離してください!」
ひとまず離す。シュガルは自分の頬を擦りながら、
「問題なんて起こしてないよ」
「左様ですか」
「そんな目で見ないでよ」
軽口を叩きながら、シュガルはゆっくりその場所を離れようとしていた。それを許すわけないユディトに腕をがっちりと捕まれる。
「では行きましょう」
「どこにですか?」
「東の四阿ですよ」
シュガルは苦虫を潰したような顔をして、ユディトの手を振り切ろうと藻掻いた。その様子に微笑みながら、
「ほら、なんの問題もないのであれば」
パッと腕を離して、
「よいではありませんか」
「よくないんだよ!」
絶叫するシュガルに豆鉄砲を食らいつつ、ユディトは怪訝な視線を遣った。
「だから何してきたんですか? 早く白状したほうが身のためですよ。ちなみにわたしは今九割お前じゃない側に傾いてますから」
「なにも、ほんとになにも……」
目が泳ぎっぱなしのくせにまだ言うか――ユディトは呆れかえり、嘆息をついた。
「まあ部屋に戻りましょうか」




ユディトは自室に戻った。シュガルを引っ張っていった先に予期せぬ天敵が待ち構えていたのだ。思わず、全て心内が無遠慮に顔に出てしまった。それを見た相手も同じく不仕付けに厭な表情を露わにした。その隙にシュガルはそっと離れた。
「ちゃんと書類は捌いてるご様子、感心歓心」
「そなたがわざわざ足を運んでくるとは、そちらはずいぶん暇を持て余してるのかしら? ねえ、ダン」
視線が混じったのはお互いを確認した一度だけ。
「ほんとに何用なの?」
「小僧はどこだ?」
「悪いけど私のところにはそれに当てはまるのが幾人かいるわ、ちゃんとはっきり言いなさい。で、どの小僧?」
歯切れの悪い唸り声が部屋に響く。ちらり、そちらに顔を向けるとダンは頭を抱えていた。ああそういえば、
「あー鳥頭の小僧だ。薄汚れた金髪のがいるだろう」
この男は他人を覚えるのが大の苦手であったな――ユディトはほくそ笑んだ。
「鳥頭? 何よ、鳥頭って。うちの子達の悪口を言いにわざわざいらしたの? それに金髪ってねえ、そんなんじゃわかりはしないわ。金髪なんて凡庸すぎる……そなただって大まかにいえば金髪になるのではなくて」
「とりあえず、鳥というか、ひよこみたいな」
「そなた、ほんとに何しにきたの?」
「人探しだ」
そこはしっかり真面目に答える。一旦、思索を巡らせてハッとした。
「恐らくだけれども、そなたが探してるのはシュガルでなくて?」
「そうなのか?」
ああ、なんと――ユディトはその場で頭を抱えたくなってきた。
「で、そいつはどこだ?」
何を言ってるのか、そぐそこにいるだろう――とユディトは目配せしたのだが、ダンは怪訝な顔をしているばかりでいる。不審に思ったユディトが周りを見渡したところで、どこにもシュガルはいなかった。
「逃げたようだからクロね」
「早く連れ戻せ」
シュガルが自分の元に来た理由がなんとなく見当がついたユディトは鼻で笑った――あの散歩で説教じみたこと言わなくても良かったんじゃないかしら。
「なんで? あの子がそなたになにしたっていうの? 私には関係のないことだわ」
「まさかお前の差し金か」
「だからそんな面倒なこと自分から仕掛けるわけないでしょう」
「たしかに」
嫌い、だけどほんと根は嫌いなれない。厄介な相手だ。ユディトは自嘲気味に微笑む。それはぎこちないが。
「何をされたか知らないけど、散策にでも出て頭冷やしてほうがいいわよ、そなた。シュガルは一度逃げたら易々と捕まる子じゃないから」




この国は二つの大河に挟まれている。不思議なことにこの二つの流れは合わせたようにいつも真逆だ。片方が穏やかならば、もう一方は激しくというように。この周期は人には知らされていない。おおよそ神のみぞ知るというものだった。リョーガの七つの都市はこの大河と密接な関係を持つオアシスを中心にして成り立っていた。
ユディトの治めるアトリはリョウガ第四のオアシスを有する都市である。先代から整備された水路に、数種の植物畑、それら囲われて街は発展していた。
「最近、雨は降ったかしら?」
「雨ですか?」
ええ――ユディトは執務室の窓から城を囲む水面を見つめ問うた。侍従は不思議そうに白土の壁へと視線を遣った。壁一面に色んな書類の言伝等が張られている。
「ここらは降ってないようですが……そういえば」
なぜか天候に関する知らせが滞っている。
「イシューをこちらに遣すよう伝えなさい」
「いきなり長官を呼び出すのですか?」
「ついでよ。周期的にはあちらの誰かがこちらに顔出さねばならない頃合いでしょ。そもそもうちの丘にあんなもの造っておいてよくも一年放置出来るわね」
ユディトが指摘したのはアトリの北東、丘陵地にある星見櫓のことである。櫓と呼ばれているものの規模で言えばこの蒼の孤城と変わらず、去年の今頃に完成したばかりの代物であったが、ほぼ稼働しておらず、ただの置物と化していたのである。皇帝の鶴の一声で出来た逸品であったためユディトは黙していたが、あまりの無責任ぶりにそろそろ一筆したためようかとも考えていた。ちょうどよい。
「そうですね。そちらには私の印章をつけときましょうか」
そういって胸飾りを侍従に渡した。
「迅速な対応をよろしくお願いしますね。これを最後に加えておいてくださいな」




その日の暮れのことだった。虹が架かったのだ。アトリに雨が降ったという事実は一切なく。彼の瞳にだけ、それは見えていた。





その顔を知らぬならば浮浪者と間違えるだろう。彼とすれ違ったアトリの役人はみなそれぞれ相応の反応を示した。一目は驚いたユディトもぎこちない笑みで彼を執務室に招き入れた。
「風呂が先と誰かに言われなかったかしら?」
「いんや」
「まあいいわ。一つ二つ私の問いに答えたら浴場に案内させましょうね」
愛用ソファーに深く腰をかけて、手を合わせたユディトが聞いた。
「こちらはイシューを指名したのにこの度はそなたが来たわけですか……そのわけを教えていただけると嬉しいのだけど」
「あの方は病に臥せってしまってな。わたしが名代としてここに送られたわけね。ああ、これが証明ですね」
懐の袋からいくつかのガラクタを出しては仕舞い、それを何度かやってから丸められた洋紙を差し出した。
「確かに印もしっかり……たしかに筆跡もイシュー本人のものね」
険しい視線が紙面と目の前のニコニコした男を行き来する。
「ではジョシュア殿、わかってらっしゃるかしら?」
「あれの管理はこれよりはこちらが持つ。そして天のことを本腰いれて調査する。他にあったかい?」
「いえ、それ充分」
ユディトの了承を聞いたジョシュアはヘニャヘニャと力が抜けたみたいにソファに沈んでいった。ユディトは呆れた顔で立ち上がり、机に寄り掛かる。机上にあった呼び鈴を手に腕を組んた。まだベルは鳴らさないで。
「あまり汚さないでほしいんですけど」
「疲れてるんだから多めに見てくれないか? 俺、ほんと疲れてるんですよ」
「ならば早くお風呂に入って休むことですね。今、人を呼びますからしゃんと従ってくださいね」
うーと口を尖らせる大の男にユディトは嘆息ととも一笑。ベルを鳴らして、
「そなたまでわたしを困らせるでないよ」



「主様~!」 まったくよく通る声だ。燦燦と照る太陽の元、湖のほとり、散策――少し前に同じことがあったような。
「主様! 主様!」
振り返るものか、ユディトは決め込んで歩を速めた。
「待って、待ってくださいってば!」
走って、追い越して、手足を目いっぱい広げて大の字で通せんぼ。肩を大きく上下させながら、
「無視するなんて酷いですよ!」
涙目で睨みつける。
「このあいだ酷い目にあったばかりなもので……ねえシュガル」
びくりと肩を跳ね上げるシュガルに対して、ユディトは微苦笑を浮かべた。
「まあこの間にかぎった話ではなかったですね」
ふと風が吹いて、ユディトは髪を押さえた。妙に涼しい風だった。得体の知れない何かが身体をすり抜けていったような、身震いがする。シュガルは何も感じなかったのか。眼前でにこにこしているこの少年は。深い藍色の眼光が揺れた。
「今回はなにもしてませんよ、僕」
揺れるか細い声にユディトは無反応だった。




ユディトはその夜、不思議な夢を見た。美しい金色の馬がアトリの水面に降り立ち、水面を浄化しながら駆け巡る。それは優雅に、歓喜溢れた姿で。けれど、天からぽつぽつと雨が降ってきて綺麗だった湖の水は墨汁を落とされたようにあっというまに黒くなった。そして牝馬は砂像如く崩れて、あっけなく沈んでいくのだ。それを繰り返し、繰り返し、目が覚める感覚を得た頃合い、仄暗く陰気な空気漂う部屋の中心に立っていた。豪奢であったであろう寝台の上で藻掻き苦しむ蒼い目の少女を視た。




応接間の壁に一枚だけ飾られてる肖像画。描かれているのは礼装に身を包んだ美しい人だった。褐色の肌に色素の薄い髪、紅蓮の目。その陰は自分と同じ色を持ってるその貴人をひたすらねめつけていた。




パタパタと少年はまた落ち着きなく歩いていた。眉を八の字にしてキョロキョロ。空はまだ白く、城内はひっそりとしていた。
「ここどこ?」
項垂れてシュガルは呟く。ここ最近、彼の記憶は虫食い状態だった。気がついたら知らぬところにぽっつりと立っていたり、知らぬ名残りがあったり、と。どうなっているのか、混乱は深まるばかりだった。
「また、なにかしちゃったかな」
いくら生来の鈍感とはいえ、理解してしまえば気色悪いなんてもんじゃない。気が狂わない自分はおかしいとすら思えた。
「どうしよう。主様に相談したかったんだけど……あの人邪魔するからなあ」
口を尖らせてみて、ふと足を止めた。
「あ、今日は晴れてる」
早朝、アトリを包む灰色の霧が消えていた。




「そういえばイシューは変わりない?」
机上の書類と戦っているジョシュアにユディトはそれとなく尋ねた。
「え、ああ……これとこれってもう少し詳しい記録取ったものないかい?」
「こちらの帳面ではだめかしら?」
「あんがとう。えっと長官殿のことですよね。変わらないというか、相変わらずというか……」
「病気だというのは?」
「今回のは……マジっぽいっすね」
「やっぱり今までのいくらかは仮病だったのね」
「わかっているものだと思ってましたが。はい、そうです、あの方の常套手段ってやつ。しかし、そこらへんわかってらっしゃったんですよね?」
「まあそうね……どことなくバレバレなのよね。今回はそんな気がしなかったから……どうなのかしらって」
紙面から視線を外したジョシュアはまっすぐユディトをみていた。
「心配するか?」
思いの外、真剣な眼差しだった。それに対してユディトは唇が歪むのを必死に抑えて、答える。
「心配はしますよ。一応、可愛い弟弟子ですからね」
「それ、あの方が聞いたら泣いて喜びますな」
「そうかしら……じゃあ残念ね、ここに来られないと聞けないもの。……来たからといって言いやしないけれど」
「あーここだけの話、俺が名代にって話になったときでしたか、必死な形相で止めようとしたんですよ、あの方。それこそ興奮しながら反論かまして、おかげで咳こんで息絶え絶えな状態になっても止まんない止まんない……ついと気絶だ」
「阿呆だわ」
「流石にあれには擁護できんわ」
やれやれと手振りをした後、不意にくつくつと笑い出すジョシュア。
「どうしたの?」
「いやはや、なんか昔にも似たようなことがあった気がしてたんだ。覚えてません?」
一息ついて、それとなく考えてみたけれどもユディトに思い当たる節がない。怪訝な表情を崩さないユディトに、
「ないかい? ほらっキミがまだ首都にいた頃」
「思い出したくない記憶ばかりだわ」
長いため息の後、ユディトは続けた。
「正直、余計なことをほじくり出したくないの。うーん圧倒的に良くないことが印象に残ってるだけできっと……そうあの頃はあの頃で良かったのかしらね……いやほんと大嫌い」
隠さず顔を歪めたユディトにジョシュアは目を細めて、
「そういう顔、久々に見た。似合うねえ」
「どういうことかしら?」
肩をすくめて、ジョシュアはいそいそと視線を書類に戻した。ユディトも難しい顔のまま、それに倣い執務に戻る。
暫くして、ジョシュアが小さく唸りながら、
「……この帳面」
「なにかあったの?」
「担当はどなたです?」
「書いてない?」
「そんなはずはないでしょう」
ユディトはこちらにそれを渡せと手を伸ばした。ジョシュアは素直に渡す。暫し、口を真一文字にしてユディトは紙面を確認した。何度も頁を捲ってはつぶさに見ていく。
「……どうしましょう」
パタンと帳簿を閉じてユディトは吐いた。
「この字が誰のかわからないわ」




どんよりとした曇り空の日だった。暗い顔をした少年とすれ違った。少女は腕いっぱいに抱えた荷物越しに少年の姿を確認して、少し進んでから足を止めた。――あれ? 誰だったかな? 見知った顔のはずなのにわからない。喉元まできてるのに、何か引っかかって答えが出てこない。唇を突き出して唸りたい不快感。密に唸り、首を傾げ、仕方なく日常に戻った。




「ユディト様!」
その一声にユディトは前のめりで頭を抱えたくなった。恐る恐る振り返る。
「今日はキルエですか」
安堵の息を含んでいた。我知らずと少女は愛らしく小首を傾げる。
「あれ? なんか酷くありませんか? あたくし、ユディト様の命を受けてちゃんとしっかり仕事してるというのに」
申し訳なさそうにユディトの視線が浮く。なんとなく察して少女は感嘆の声を上げた。
「あーひょっとしてシュガルですか? うーそんなに似てますでしょうか?」
ふんわりとした金髪は同じだが、キルエの瞳は明るい青だった。そもそも二人に血の繋がりはない。まして性別が違う。それなのに齢の近い二人はよく間違われる。
「まっシュガルが何したか知りませんが……さておき、こちら頼まれていたものです。確認して欲しくて」
ぽんっと出された紙の束。
「大変だったんですよ、見つけ出すの」
ポンポンとユディトはその愛らしい頭を撫でながら、ふと問うた。
「有り難う、キルエ。では、その探してるときに何か気になったことはなかったかしら」
キルエは視線を巡らす。
「あるにはありますね。でもそれと関係ないかも……」
常にハキハキしているキルエが歯切れ悪そうにしている。ユディトは紙面に視線を落としながら、
「別に些細なことでもいいわ。言ってみなさい」
「よくわからない人とすれ違いました」
「わからない? どういう風に?」
「自分でもそこのところが上手く説明できないわからなさです。思い返すと混乱するんです。だから忘却するのが一番かなって……まあ無理なんですけど……この不快感どうすればいいですか?」
可憐に首を左右に傾げるキルエ。
「それが誰かわからなくてモヤモヤするってことね」
「そんなところですかね?」
「その……聞いておいて悪いのだけれど、私もそういうの対処法に悩んでいるところなのよ。これはみんな通過することなのかしらねえ?」
二人とも困った顔をして、嘆息を吐いた。
「とりあえず、どこでそんなのに出くわしたの?」
「廊下ですれ違いです。そのときは気にも留めなかったんですけど、少し経ってからあれれって」
そのままキルエは真面目な顔を作って、
「私、記憶力だけが取り柄だったのに」
肩を落とす。いつもは大人びいた少女が弱気になって年相応の顔をしている。ユディトはそんな微笑ましい彼女を横目に先日の自分の記憶を辿っていた。知らぬ顔の話、自分の知らぬ筆跡。二人だけだが、二人も似た経験を同時期に得るものだろうか。ユディトは暫し、少女と言葉を交わしながら、考え続けた。




同じ時刻、シュガルは大変な事態に悩まされていた。幸い、今日の務めは容易いものでもう終わらせている。そもそも、その帰り道だった――安楽的に考えたのがいけなかったのか。滅多に開いていない扉が開いていたのでこれ見よがしに近道が出来ると古庭に足を踏み込んだのだ。美しい風体の造形に足取りも軽かったが、迷った。アトリの城の古い庭には記憶が宿っている。そんなことが伝えられていた。けれども、それは特段なんともなかった。鍵をかけられているが、別に立ち入りを禁止されているわけでもない。城で働く人間が密に憩いの場にしていたり、シュガルが思い立ったように近道に利用したりと。アトリの城はとても大きく古いのでこういう場所が庭に限らず、幾つもある。シュガルも何度かお世話になっていた。ただ、この庭ははじめてだった。シュガルは迷ったと理解したその瞬間、雷に打たれたような衝撃が脳天を衝いた。膝を折って、土に手をついて、痛みに耐えながら、思考する。目尻からは自然に涙が零れた。口から洩れるのは呻き声になりかけた息。気付けば、明るかったはずの庭は鬱蒼とした植物らが創る薄ら闇に包まれていた。暗くなる時刻ではない。不意に痛みからすり抜けてきた考えは最悪のものだった。誰が、自分が、ここにいることがわかる? このままだと誰にも知られることなく、ここで野垂れ死ぬ可能性は。自分がいないことは気づいてくれるだろう、でも、ここは? 絶望で泪はすっかり乾いた。爪が地面に入りこむ。湿った土が指を汚し、隠れた砂利が爪を指の腹を傷つけることなど構いはしなかった。這ってでもここから出てやらなくては。その一点に意識を持っていく。少しは痛みを追いやれた気がした。だが、この痛みは生易しくなった。追い打ちがきた。二発目の稲妻は容赦なくシュガルの意識を奪った。力が抜けていく最後の最後で安堵した。痛みがもうない――これは死ではない。その核心だけでシュガルの顔は笑みを作っていた。




日は暮れなずみ、鳥は鳴いている。アトリの水面は夕焼けを映し、キラキラと煌めいていた。ユディトは遅い散策に出ていた。足元が冷えていた。リョーガは通年太陽が上にいるときは暑いが、月が顔を出すと厳しい寒さの気が地を這う。ユディトはキルエと話したことを思い直していた。アトリの城は古い歴史を有するが故に不思議なことがある。そう、全てを把握しているわけではない。だが、これまで起こったこういった件は些事でさして深入りする必要のないものだった。自身が当人になったこともなかったというのもユディトがこれらに疎かった遠因だったかもしれない。下手をすれば、いや考えたくもないが、専門家を呼んだほうがいいだろうか。悩んだ。せっかくの気分転換がこれでは台無しだといわんばかりに眉間の皺を揉み解した。ふと視線を上げると血相を変えて走ってくるジョシュアの姿があった。
「ユディト、ユディト!」
足を止める。ジョシュアはすぐそこまで来て息を整えてからゆっくり最後の歩を進めて、距離を詰めた。
「摑まえることが出来てよかった。散歩なんていい趣味をみつけたね」
「私もそう思うわ。素敵でしょう。せっかくだからそなたも如何?」
「持ち帰って検討させていただこうかな」
苦い微笑みを交わしあってから、
「なにが遭ったの?」
ユディトから問うた。
「ここのところ雨降ってないよね?」
「ええ、それを調べてもらいたいって伝えたでしょう」
「虹は見たかい?」
「何を言ってるの? さきほど、雨は降ってないと言ったばかりでしょ。虹って雨があって出るものじゃない」
「なら他の誰か……どんな形でもいい、虹を見たという奴はいる?」
虹、そんなに重要なことなのか――ユディトは小首を傾げた。
「わからないわね、ところでそれはどういう」
「埃の中に埋もれてた記憶なんだと思う」
ジョシュアは遠くを見ていた。




ジョシュアのいう話は本当に御伽噺の一種だった。アトリの昔語り。資料を倉庫で漁っていたときに不思議と目に留まったそうだ。このアトリの城に棲む魔法にまつわる青の唄。雨を知らない虹という一節が現在と類似してると。
ユディトはやはり懐疑的だった。でも、自分でなにかしらの答えがあるわけでも、ましてや糸口を掴めているわけではない。ユディトは自分で思ってるほど頑なでもなかった。打開の可能性があるのならば、とすぐに手を打つことにした。しかし、青か――。ユディトは空を仰いだ。





翌日も晴れていた。ユディトの執務室にはまたジョシュアが詰めかけ、そのまま一緒に作業をしていた。昼頃にはキルエが書物も抱えてやってきた。
「虹がきれいだった? なにを言ってるの?」
キルエは怪訝な顔でジョシュアをねめつけた。ジョシュアは至って真面目な顔をしていた。そんな二人の間を割るようして、キルエが口を開いた。
「そんなことよりシュガル知りませんか? 今朝方にはいたと確認を取れてるのですが、どうしたんかな……困ってるんです」
またか――とユディトは額に手をやった。
「すみません、大丈夫ですか?」
「あの子には最近……ほんと目に余ることが多すぎるわね。お灸を据えたほうが良いかしら?」
「できれば。ですけど無理にはとはお願いしません」
「いたずらはわかっているわ。ただ務めをサボるような子ではなかったと思うのよ……ほんとここまでとは
ジョシュアをなにか思いつめたかのように黙していた。そして、唐突に。
「シュガルに会いたい」
「どうしたの? いきなり会いたいって、そなたが説教してくれるのかしら」
「シュガルの瞳ってどんなだった?」
ユディトとキルエは顔を合わせて、眉を顰めた。
「どんなって、なんとも……」
「それは赤い、明るい赤色でしたよ、澄んだ青はユディト様」
「ええ確かに明るい赤だった気がするわ。でも、それが今なにかしたの?」
ジョシュアの表情が翳った。声を低めて、
「早くシュガルを探したほうがいい」
どこか切迫した様子が見える彼にユディトは余計なことを聞き返すことはせず、素直に従った。




時刻は不明。部屋は妙な静けさを孕んでいた。その中心にいたのは小柄な影だった。曖昧な表情で肖像を見上げている。どこか重い匂いがする。それは這って、纏わりつくようにして、だんだん馴染んだ。永く底にあった空気は不思議な色を持っていた。それが視えるのはそれに同調できる可能性があるものだけ。
「お前は何故ここにいる?」
少年の耳にどこからともなく声は降ってきた。曖昧な視線がゆらりと壁を伝い上る。誰もいなかった。そこにあったのは厳かな肖像画だけ。少年は口を半開きにしてなんともおかしな表情をしていた。一見、間抜けな。微睡んだままに濁った赤眼。
「まったく言いつけを破りおったか。また迷い児をつくるとは」
部屋に小さな砂嵐が起こった。窓が勢いよく開かれて外から風が吹き込む。乾いた白砂がキラキラとして、人影を形どる。肖像に描かれたその姿だった。ただし、硝子にも氷像のようにも全体の色は青く透いていた。目元だけが強くぼやけて、いや吸い込まれるほどの黒で潰されている。吐息は白く、これもまたキラキラとした粒子が舞って綺麗だった。砂の一粒、一粒が凍っていた。少年は惚けた態でのったりと手を叩く。
「なんだ、今回はわたしを覚えているのか」
少年の顔面が歪む。にったりと綻びる。
「では、これからどうなるかも理解しているな。悪いが何度目であろうと手加減せんよ」
ひゅるり、風が吹き抜けた。
身体を震わして笑う少年の声帯から音はなく。変わりと言わんばかりにケラケラと子供の笑い声があちらこちらから発され、部屋を満たす。
人影は瞬いた。青白い光が一度、笑い声を払いのけるように強く発光するとその光は弱まるとともに赤みを帯びた。光が完全に引くと室内に静けさが帰ってきた。少年は笑うことを止めた。きょとんとした顔ではらりと涙が頬を伝う。膝を折って、人影を見上げる。口が動く。どんなだけ動こうと声はつかなかった。
「あの子たちを起こしてはいけないんだよ。君もわたしも独りで――だから」
淡々と告げる。
「帰りなさい」
ただただ不思議そうに不満げに、少年は人影を見つめていた。

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